2017年6月10日土曜日

仏都・伊勢を往く(田宮寺編)

 明治以降、新政府の方針により神仏分離が命令され、伊勢神宮のお膝下である伊勢の町(宇治・山田)ではそれが特に徹底されたため、現在では多くの仏教寺院やお堂は姿を消してしまいました。
 しかし、江戸時代以前には伊勢神宮・内宮(ないくう)の鳥居前町である宇治、外宮(げくう)の山田とも、多くの寺院が建ち並んでおり、たくさんの僧侶が神前で読経などを行う、いわゆる「法楽」を盛んに行っていました。伊勢は神都であるとともに仏都でもあったのです。
 伊勢神宮の神職の中にも仏教に帰依する者が多数おり、末法思想が浸透した平安時代後期になると、祭主や禰宜といった高級神職が一族のための氏寺を建立する事例さえ現れます。この田宮寺もそういった法楽寺の一つです。


 祭主を世襲していた大中臣氏は、蓮台寺(以前このブログでも紹介しました)や、蓮華寺(これも以前紹介しました)、釈尊寺、勝善寺、大覚寺、長元寺を、外宮の禰宜を世襲していた度会氏は常明寺を、そして内宮の禰宜を世襲していた荒木田氏は法泉寺や天覚寺、そして田宮寺を建立したのです。

 田宮寺は伊勢市内ではなく、数キロ離れて隣接する度会郡玉城町にあります。
 境内にある看板の由緒書きによると、「奈良時代に行基(東大寺の大仏建立に尽力した僧侶)が神宮法楽寺として草創されたと伝えられ、弘法大師を中興の祖と仰ぐ」とありますが、玉城町史によると長徳年中(995~999)に、内宮の禰宜であった荒木田氏長が建立したものだそうです。
 本尊は二体の十一面観音で、いずれも平安時代初期の作とされ、国指定の重要文化財となっています。当然ですが、荒木田氏が創建した法楽のための寺ということであれば、この二体の十一面観音を天照大神の本地仏とみなしていたということなのでしょう。
 天照大神の本地仏については、金剛証寺では大日如来(雨宝童子)が、神宮寺(廃寺)や津観音寺では阿弥陀如来が祀られていますが、そうではなくて実は観音菩薩こそが天照大神の本地であるという説はかなり早い時期から見られるそうで、寛弘5年(1008年)ごろに成立した「政事要略」という書物の中に、「伊勢遷宮に参列した竹田種理(たけだのたねさと)という人物が、荒木田氏長から南無救世観世音菩薩と申して(内宮を)礼拝せよと命じられる夢を見たため、不思議に思って氏長本人に問うたところ、大神宮の御助を蒙ったのであるとの夢解きを得た」というような話も書かれているそうです。

 田宮寺が特長的なのは、かつて境内に「御船殿」という建物があったと伝えられることです。ここには内宮から撤下された古御船代(ふるみふなしろ)が奉安されていたそうです。
 御船代(みふなしろ)とは、天照大神の御神体である八咫鏡を納める容器である御桶代(みひしろ)を、さらに収納する舟形をした檜製の器のことです。つまり、御神体は二重の容器に収められていることになるわけですが、式年遷宮によって新しい御桶代と御船代に御神体がお移りになった後の、御用済みとなった御船代を、ここ田宮寺に奉安していたということです。
 現代ではこのようなことはまったく考えられませんが、やはり荒木田一族の氏寺であることから内宮とは特別の関係にあったということなのでしょう。

 さて、このように明らかに特別なお寺であった田宮寺は、何度か火災や戦乱にあったものの、そのたびに再建されて、江戸時代の元禄期の記録では、仁王門、本堂、大師堂、客殿、庫裏などを擁する大寺でした。
 しかし上述のように明治の廃仏毀釈によって伽藍の大部分を失い、今は住職も置かれず、地元住民による奉賛会が管理をされているとのことです。
 本尊の十一面観音は秘仏で、2月18日の初観音大祭、8月9日の夏祭りなど年に何回か御開帳されるのみだそうです。ぜひとも機会があればお参りさせていただきたいものです。ちなみに、観音像の写真はこちら(伊勢志摩きらり千選のホームページ)を参照してください。

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